「海を見る自由」

僕は立教高校の出身なのだが、立教高校は、2011年の東日本大震災の発生に伴い、卒業式の中止を決定した。そして、タイトルの「海を見る自由」とは、立教高校の校長が卒業生に対して送ったメッセージ内の言葉だ。

素晴らしいメッセージなので、是非ともご一読を。

卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ。

そして、なぜだかはわからないが、今日、発熱のために訪れた病院の待合室で、ふと、考えた。学校や親からの管理を離れ、ふらりと海を見に行けること、すなわち、「海を見る自由」が大学生活という時間の意味合いなのであれば、社会人なり社会人生活の意味はなんであろうか、と。

ぼんやりとした頭で考えてみた。

確かに、”自由”という言葉は、社会人生活にはそぐわない気がする。時間的な制約は大学生とは比ぶべくもない。昼休みに、ふらりと出かけ、そのまま海に行こうものなら、即クビとまではならないまでも、評価は下がるであろうし、「おいおい、あいつ、大丈夫か?」と社内で”おかしなヤツ”という評判が立つことだろう。

では、社会人とは?

考えて、たどり着いた結論は、大学生に「海を見る自由」があるのであれば、社会人には「海を選ぶ自由」と「海の価値を知る不自由さ」があるのではないか、ということ。

どういうことか?

「海を選ぶ自由」とは、すなわち、どこの海にでも行くことができる、”お金”ということだ。大学生は、海に行く自由がある。だが、行くことができる海は、金銭的な都合から、限られたものであると思う。

東京の大学生であれば、「ちょっと海行こうか?」というノリで行けるのは、千葉か静岡あたりの海だろう。だが、社会人であれば、もう少し遠くへ行ける。沖縄の海にも、海外の海にだって行くことができる。

そしてもう一つ、「海の価値を知る不自由さ」。こちらが特に重要だと思う。かつて大学生だったことがある人は、思い浮かべてみてほしい。当時、「ああ、自分って自由だなー」と思っていただろうか。答えは否だろう。少なくとも、僕は、そうは思っていなかった。時間があることが、管理されていないことが当たり前だったから、自分が自由であるとは思っていなかった。ただ単に、「暇だなー、なんか楽しいことないかなぁ」と時間を持て余していた。

「海を見る自由」もそれと同じ。自由な時は、自由の価値を、自分が自由であることを、自覚できない。失って、制約されて、はじめて気づくことができる。

だから、もし、大学生に「どうだ!俺たちはいつでも海を見ることができるんだぞ」と言われたら、僕はこう返したい。

「それがどうした。俺たちは、海の美しさを、その価値を、知っているぞ」と。

 

 

小林 慎太郎

投稿者: 小林 慎太郎

1979 年東京都生まれ。立教大学社会学部卒。IT企業にて会社員として勤めるかたわら、自身の言葉や文字で想いを伝えることに対して苦手意識を持っている人を支援するため、ラブレター代筆、プレゼンテーション指導、スピーチライティングなどをサービスとして提供する<デンシンワークス>(dsworks.jp)を運営。 <著書>『ラブレターを代筆する日々を過ごす「僕」と、依頼をするどこかの「誰か」の話。』(インプレス社)