『真説・佐山サトル タイガーマスクと呼ばれた男』田崎健太(著)

タイガーマスク、と聞くと、1979年生まれの僕にとっては、初代タイガーマスク佐山サトルではなく、2代目タイガーマスク三沢光晴の方が身近だ。プロレスを見始めたのは小学校高学年だったと記憶している。ジャイアント馬場率いる全日本がお気に入りだった。三沢光晴、川田利明、小橋建太、田上明の四天王に魅せられた。
特に田上が好きで、192cmの巨体から繰り出される喉輪落としは、ブラウン管越しに観ても迫力に満ちていた。

新日本もたまに観てはいたが、全日に比べると、よく言えば華やか、悪く言えばチャラい感じがして、全日ほどには夢中にならなかった。全日贔屓だった僕は、当然、全日の方が強いと信じて疑わなかった。三沢のローリングエルボーを喰らったら新日レスラーはひとたまりもないだろうな。早く対決してくれないかな、と思っていた。

ただ、そんな僕も、思春期を迎え、自意識、自己顕示欲のようなものが芽生えてくると、新日の華やかさに目が向くようになり、逆に、全日はちょっと地味だな・・・と思い始めることとなる。特に、「黒のカリスマ」蝶野正洋が、社会を斜に見始めた当時の僕には、とにかくカッコよく見えた。

だが、それも、長くは続かない。
いつしか、K-1、PRIDEといった格闘技へと僕の興味は移った。相手をロープに振ることもなく、ラリアットもなく、コブラツイストもない。シンプルな強さを、僕は求めた。

そして、いつしか、大人になり、社会人となり、夫となり、父となる中で、意識的にプロレスなり格闘技を観ることはなくなった。たまたまつけたテレビでやっていたら、なんとなく観る。その程度になった。

ただ、プロレスや格闘技に関する本は好んで読んだし、今でも読む。
テレビで観ることはなくなれども、彼らの生きざまや言動から発せられる男らしさ、男くささに対する憧れは、依然として持ち続けている。

そして、自然の流れで、本書を手に取った。

読み終えた直後の感想は、あれ?という違和感。
プロレスラーや格闘家の本に限らず、通常、特定の誰かについて書かれた本を読み終えた際は、その人のことが大好きになる。『竜馬がゆく』を読んだ際は、竜馬が学んだ剣術の流派、北辰一刀流を習うべく道場を探し回ったし(まあ、結局習わなかったが・・・)、立川談志に関する本を読んだ後は、「芝浜」を聴きながら眠りにつくのがしばらくは習慣になり、スティーブ・ジョブズに関する本を読めば、黒シャツにジーンズがお気に入りのスタイルになったりする。

だが、今回はそれがない。もちろん、佐山サトルの足跡や人物に対する理解はとても深まり、また、彼の功績や姿勢に対して率直に尊敬の念を抱いた。ただ、無条件に佐山サトルという人物に惚れたかというと、そうではない。いつもと様子が違う。

しかしながら、あれ?と違和感を抱きつつも、一方で、その理由もわかっていた。本書は、佐山サトル本人や、そのほか2,3人ほどのインタビューから構築されたのではなく、佐山本人はもちろんのこと、学生時代、レスラー時代、総合格闘家時代、それぞれの時代において佐山サトルと交わった人たちに緻密に話を聞き、多角的に、360度評価をするかのように、佐山サトルの良い面、悪しき面、光と影を書きだしている。

だから、読者である我々は、盲目的に佐山サトルという人物に好意を抱くことなく、一定の距離を保ちつつ、佐山サトルという人物を理解することができる。だから、あれ?となったのだ。

先ほど、「緻密に話を聞き」と書いたが、本書を読み終えた際、あれ?という感想とともに、本書全体の緻密さや、正確性に対する執着に気圧された。ノンフィクションだからね、というレベルではないと感じた。

そもそも、はじまりが、佐山サトル本人ではなく、佐山の父親の生い立ち、そして父親が大人になってから戦場に駆り出され、シベリア抑留になるところからはじまる。僕などであれば、タイガーマスクの誕生前夜くらいから書き出すが、タイガーマスクではなく、佐山サトル本人の誕生前夜からか、と、ここから書こうとする著者の覚悟に舌を巻く。

また、もう一つ印象的な記述があった。佐山が自身に巻き起こる出来事、日々を綴っておこうとワープロでメモを付けるくだりがあるのだが、その際、著書は以下のように佐山の使用していたワープロを説明している。

八十二年秋、佐山は、発売されたばかりの日本語ワードプロセッサー、東芝の「TOSWORD JW-1」を手に入れている。これはキーボードと液晶ディスプレイが一体となったポータブル機だった。七九年発売の日本初のワープロ、JW-10と比較して、体積が二十分の一、重量が十五分の一に小型化されたというのが宣伝文句だった。とはいえ、重量十一・五キロ、価格は五十九万八〇〇〇円と高価で、液晶ディスプレイに表示できるのは二行のみだった。

こんなに書くのか・・・。ノンフィクション作家なら当たり前なのかどうか僕はよくわからないが、本筋とは関係ない箇所に、ここまでの労力を費やすノンフィクション作家というものの実直さに畏怖すら感じた。

その姿は、佐山サトルの実直さとも通じるものがあるとも思った。
正直、本書を読み進めながら、佐山のあまりにもまっすぐで愚直な佐山の姿を、もどかしく思うこともしばしば。登場シーンくらいは派手にしてもいいし、恰好は派手でもいいじゃない、とも思った。「いいものはみんなで使えばいい」と言って、オープンフィンガーグローブの著作権をとろうとしないくだりを目にした時は、「馬鹿馬鹿!」と心底思った。でも、佐山はそうはしない。金、人気、名誉を求めない。ただ、強さだけを追う。著者も同じ。事実だけを追う。2人の姿が重なる。

また、読み進めつつ、佐山が残した功績ほどには世間から評価されていないことをもどかしく思う。おそらく、本書を手に取った読者はみなそうなのではないだろうか。評価されろ、評価されろ、と思いつつ読み進めるが、最後まで、スカッとするような展開はない。言ってしまえば、消化不良に終わる。

だが、本書はひとりの人間を描いたノンフィクションだ。人生においてハッピーエンドなどそうそうなく、大概は、過去に対してのわだかまりや、引きずるものを残す。そう考えると、消化不良に終わるのは当然のことなのだろう。それは、タイガーマスクとして類まれなるスター性と実力を兼ね合わせた佐山とて例外ではない。いや、だからこそ、かもしれない。

全体を通してシリアスな雰囲気だが、おもしろかったのは、佐山の人生が進み、彼の境遇が目まぐるしく変化しても、猪木に対する視線が常に変わらないこと。猪木のことを語る時、そこには常に畏怖とともに愛情のようなものが感じられ、それがほほえましかった。
文中、藤原喜明の証言として、佐山が手を頭の後ろに組み、寝転びながら猪木と話をしていて驚いたという記述が出てくるが(佐山本人はこれを否定しているが)、まさに、猪木を語る時の佐山からは、寝転びながら父親と話をしているような空気が感じられた。

前述したように、本書は、雲一つない快晴のような終わり方をするものではない。だから、最終章を読み終えたあとも、これで終わらせたくなくて、僕は、佐山の父親について書かれた第一章へと再び頁を戻した。当たり前だが、戻ったからといって、内容が変更されるわけではない。それでも、そうしたかった。

第一章の終わりの方に、佐山の父親が出張先から佐山にあてた手紙が紹介されている。読み始めの時は何の気なく読んだ手紙を、再び読む。

聡が独りぼっちで居るのが一番心配。だが男だ!負けちゃいかんぞ。両親の無い子、家の無い子も居る。強く生きて呉れ。皆で頑張ろうね。父との約束、守れる人間になれ。

ああ、そうだ、佐山は父親との約束は守ったんだ。負けてない。強く生きた。
それは間違いない。

そう思うと、ようやく本書を閉じることができた。

 

 

小林 慎太郎

投稿者: 小林 慎太郎

1979 年東京都生まれ。立教大学社会学部卒。IT企業にて役員を務めるかたわら、自身の言葉や文字で想いを伝えることに対して苦手意識を持っている人を支援するため、ラブレター代筆、プレゼンテーション指導、スピーチライティングなどをサービスとして提供する<デンシンワークス>(dsworks.jp)を運営。 <著書>『ラブレターを代筆する日々を過ごす「僕」と、依頼をするどこかの「誰か」の話。』(インプレス社)