『魂でもいいから、そばにいて ~3・11後の霊体験を聞く~』奥野修司(著)

本書は、東日本大震災で被災された人々の体験談、とは少し違う。体験談には相違ないのだけど、副題にあるように、〈3・11後の霊体験〉だ。

ある人は夫を、ある人は妻を、ある人は両親を、そしてある人は子供を。立場は違えど、とにかく愛する人を失い、喪失感にさいなまされる日々の中で、各々が不思議な体験をする。

亡くなったはずの人が目の前に現れる。亡くなった人が電話に出る。亡くなった子供のオモチャが動き出す。

通常であれば、このような体験は「オカルト」の類にされてしまうが、本書に出てくる人たちにとってはそうではない。愛する人たちの存在を身近に感じとることができ、安堵し、悦びすら覚える。子供を失った母親は言う。「成仏しない方がいい。そばにいて、いつも出て来てほしいんです」と。

映画やドラマであれば、故人の成仏を願うのだろうが、現実は、愛は、そう簡単に割り切ることはできない。成仏などしなくていい。輪廻など必要ない。姿は見えなくとも、声は聞こえなくとも、魂でもいいから、そばにいて。そう思うのが現実の愛だ。


話しが少し変わるが、先日、母が69歳で亡くなった。
それまで、僕はお通夜などに参列した際、故人のご家族に対して「御愁傷様です」と声をかけるのが苦手だった。単純に普段使いなれていないから、ということもあるが、それよりも、あまりにも形式的で、うわすべりな言葉だと思っていたから。そもそも、”御愁傷”の意味がわからない。


でも、自分の母が亡くなり、同僚なとが「御愁傷様です」と声をかけてくれると、形式的だなどとは微塵も思わなかった。それどころか、声をかけられるたび、救われる気さえした。大きな救いではないかもしれないが、猛暑の中で木陰を見つけたような、そんな些細な、でも、確かな安堵。

本書の中にこんなセリフがある。「私たちは誰からも声をかけてもらえなかったんです。家族が四人も亡くなって、なんて声をかけたらいいのかわからなかったのでしょうが、かける言葉がなくても、肩を抱いてくれるだけでもよかった・・・」

人が人に対して出来うることはたいしたことではないかもしれない。でも、たいしたことでなくとも、肩を抱いてあげるだけでも、声をかけてあげるだけでも、救われることがある。

たいしたことはできないから、と遠巻きに見守るのではなく、一歩近づき、たいしたことではないことをしてあげればいい。

母の死により、本書により、僕はそのことを学んだ。きっと普通の人はもっと早くに知るのかもしれないが、40になって、ようやく、だ。

今日、写真立てを買った。部屋の卓上に、僕の結婚式で母と並んで写っている写真を飾るためだ。また、数日前からは花瓶も置いてある。なかには、スノードロップ。

母の入院中、枕元にはいつも白い花が飾ってあった。誰かに、白い花を枕元に置いておくとよい、と言われたらしい。僕が花束を持ってお見舞いにいくと、決まって「白い花?」と花の色を気にしていた。

本当は、近頃春めいてきたので桃の花を生けたかったのだが、母に怒られそうで、スノードロップにした。


白い花をそばに飾っておく。たいしたことではないけれど、それだけでも、いくらか僕の心は安らぐ。


小林 慎太郎

投稿者: 小林 慎太郎

1979 年東京都生まれ。立教大学社会学部卒。IT企業にて役員を務めるかたわら、自身の言葉や文字で想いを伝えることに対して苦手意識を持っている人を支援するため、ラブレター代筆、プレゼンテーション指導、スピーチライティングなどをサービスとして提供する<デンシンワークス>(dsworks.jp)を運営。 <著書>『ラブレターを代筆する日々を過ごす「僕」と、依頼をするどこかの「誰か」の話。』(インプレス社)