きみ、それは「正論」かもしれないが、「正義」ではないと思うよ。

昨年に取締役なるものに就任し、また、2児の父親となり、はじめて気づいたことがある。それは、過去、自分が「わかってないなぁ・・・」と思っていたような人々は、実は、「わかっていたのだなぁ・・・」ということ。

世の中のどの会社でもそうなのだが、業績なのか、人間関係なのか、待遇や環境面なのか、理由は様々なれど、現状に納得がいかず、退職をする人が出てくる。退職をしたからといって絶縁をするわけではないので、退職をして別の会社に転職をした人、もしくは、まだ在籍はしているが既に退職をすることが決まっている人と話をする機会が当然ある。
そして、彼ら彼女たちの話を聞いていて思うのは「まったくもって正論だな」ということ。と同時に、こう思う。「両親ではないんだな」と。

会社=子供として考えてみる。冒頭に書いたように、僕には男の子(7歳)と女の子(3歳)の子供がおり、すごくかわいい。どのくらいかわいいかと言うと、ものぐさな僕が、毎朝、上の子を友達との待ち合わせ場所まで送り、その後家に帰り、朝飯を済ませた後、下の子を保育園まで送り届けているくらい、かわいい。かわいいから、当然、”やさしいパパ”と思われたい。ジュースも好きなだけ買ってあげたいし、お菓子もたらふく食べさせてあげたい。おもちゃだって買ってあげたいし、何をしたって叱ることなく誉めていたい。母親に叱られてぐずる子供の頭を撫でて、「おぉ、よしよし。お母さんは怖いね~」と味方につきたい。

でも、それはできない。ジュースやお菓子だけでお腹が満たされ、ご飯を食べられなくなってしまっては健康に支障を来すし、住宅ローンや学費、貯金もしなくてはならないから、おもちゃを好きなだけ買ってあげることはできない。誉めるだけではなく、悪いことをした時にはしっかりと叱ってあげないと、それが悪いことだと気づくことができない。つまり、家を守り、子供たちを育てなくてはならない。

でも、おじいちゃん、おばあちゃんであればそうではない。孫に好かれること、自分が嫌われないことだけを考えていればいいだろう。好きなだけお菓子やジュースを買ってあげられるし、いくらもで”いい人”でいられる。いい人であれば、子供に反感を抱かれることもないので、気持ちも穏やかでいられる。

会社も同じだ。誰だって部下には好かれたいだろうし、耳障りのよいことだけ言っていたい。望むままに給与だってあげたいし、「あの人はひどい人だね」と味方につきたい。そうすることはたやすいし、反感を買わないから楽だ。「わたしは正義なのだ!」と自己満足に浸ることもできるだろう。誰だっておじいちゃん、おばあちゃんになりたいが、そうもできない。誰かが両親となり、嫌われ、責任を負わなくてはならない。

話を冒頭に戻す。社会人になってから15年ほどが経つが、その間に、「なんでこんなこと言うんだろう」「なんで好きにさせてくれないんだろう」「は、なんで?」と思うこと、思わせる人に何度か遭遇をした。その時は「わかってないなぁ・・・」と蔑むだけだったが、今は、そうではないことがわかる。ああ、わかってたんだな、と(ほんとにわかってない人もいたとは思うが)。

言葉を選ばずに言うと、僕は、「退職をした」「退職をすることが決まっている」という安全な場所で、正義然とした顔つきで、正論を吐く人を信用しない。そんなことは誰だってできる。「正論」が必ずしも「正義」とは限らない。

ポテチを頬張りつつ、テレビに映る紛争地域の模様を見ながら、「戦争は悪!」と叫んだって何も響かないし、誰にも届かない。紛争地域に立ち、銃弾に貫かれる危険に身をさらしながら叫ぶ正義。それしか届かないし、その声にしか僕は耳を傾けない。



小林 慎太郎

投稿者: 小林 慎太郎

1979 年東京都生まれ。立教大学社会学部卒。IT企業にて役員を務めるかたわら、自身の言葉や文字で想いを伝えることに対して苦手意識を持っている人を支援するため、ラブレター代筆、プレゼンテーション指導、スピーチライティングなどをサービスとして提供する<デンシンワークス>(dsworks.jp)を運営。 <著書>『ラブレターを代筆する日々を過ごす「僕」と、依頼をするどこかの「誰か」の話。』(インプレス社)