『キャバレー』ビートたけし(著)

本書の主人公は、たけしではなく、綾小路きみまろだ。キャバレーの司会で漫談の腕を磨きつつ、いつか売れると信じて、複雑な人間模様や陰鬱とした日々をやり過ごす日々。時折、きみまろと、同じ時代を生きたツービートとが交錯する。フィクション、とあるが、ある程度実体験に即しているのだろう。

綾小路きみまろのその後の成功を知っているため、小気味よいサクセスストーリーなのかな、と思い本書を手に取ったが、そうではなかった。夢や、希望は、特にない。読者が期待しているような、不遇の時を過ごした主人公が、長いトンネルを抜け、光の当たる世界へ飛び立つ!という爽快感はない。

正確にいうと、物語のラスト、成功を手にしたきみまろが(たけしも)登場する。でも、そこに成功を手にしたものの愉悦はない。きみまろは、こう悲嘆する。

「テレビにもラジオにも呼ばれるようになった。金も貯まった。お笑い、有名人、良い車。何か空しい。こんなもののために徹夜で考えたり、悩んだりしたのか。こんなものに命がけで……」

彼らが手にした成功と比ぶべくもないが、少しだけわかる気がする。僕は日頃は会社員として働いている。程度の差はあるだろうが、会社員であれば、少なからず出世だとか待遇の良し悪しといったものを意識するものだと思う。僕も一応人並みに野心はあり、そういったものを目指した。結果として、さして大きな会社ではないが、取締役となり、待遇もそれなりのものを獲得した。

で、happyか?と問われれば、そうでもない。

役職もなく、いちメンバーとして馬車馬のように働き、時に酒を飲みながら上司や会社の悪口を言っていた頃の方が、随分と楽しかったように思う。

本書の帯にこうある。
「夢なんて、叶わないから夢なんじゃねえか」

夢は叶えたら現実になってしまうわけで、夢のままではいられない、ということか。 夢は捨てたと言わないで……、と、かつてたけしは歌ったが、どうだろう。 現実に戻る、という意味では、夢は捨てるのも、夢を叶えるのも、そう違いはないのだろう。



冒頭に書いたように、この物語には、夢や、希望は、特にない。本書には、きみまろやたけし以外の登場人物として、キャバレー「新宿ナイトクィーン」の用心棒やくざや、専属歌手、雇われ支配人などが登場する。やくざは殺され、専属歌手は場末のキャバレーを転々とし、支配人はどこかへと消えていく。こう書けば、たけしやきみまろは最高に幸せなようだが、そうではない。「売れたくて売れたくて売れっ子になった今はそんな事どうでもいい」とつまらなそうな顔をする。

彼らの人生は「新宿ナイトクィーン」で過ごした一時だけ交わる。そして、誰も夢を叶えちゃいないし、富も名声もないが、なぜだか輝いて見える。夜のわずかな時間、キャバレーが歌と笑いと光に包まれるように、彼らの人生も一瞬光り、そして、夜が白むとともに、光は萎んでいく。

そこに、夢や希望はない。ただ、哀しくもない。
一瞬だからこそ、一時だからこそ、人は、人生は、愛おしく、価値がある。

読後、爽快感はないが、後味は悪くない。愛が、残る。


小林 慎太郎

投稿者: 小林 慎太郎

1979 年東京都生まれ。立教大学社会学部卒。IT企業にて役員を務めるかたわら、自身の言葉や文字で想いを伝えることに対して苦手意識を持っている人を支援するため、ラブレター代筆、プレゼンテーション指導、スピーチライティングなどをサービスとして提供する<デンシンワークス>(dsworks.jp)を運営。 <著書>『ラブレターを代筆する日々を過ごす「僕」と、依頼をするどこかの「誰か」の話。』(インプレス社)